(公財)セゾン文化財団 理事長 片山 正夫
いま、日本の社会では「息苦しさ」「生きづらさ」を感じる人が増えているようにみえる。
比較的自由な社会であるはずの日本でなぜ、と思うが、しかしこの苦しさは、むしろその「自由であること」に少なからず起因している。これはジレンマである。
自由な社会というものは、そのまま放っておくと格差がどんどん増大する。
自由であることの果実を心ゆくまで堪能できるのは、才能や資産、あるいは人並外れた情熱をもったごく一握りの人々であり、大部分はその割を食うことになる。
「自由化」が多くの場合、弱者でなく強者によって唱えられるのも、それゆえである。
自由のもう一つの負の側面は、社会や人生における安定(正確には安定している感覚)が脅かされることである。
企業の業績報告などを読むと、環境認識の項にはたいてい「今後の見通しはなお不透明」と書かれている。
常套句として半ば無意識に書いているのかもしれないが、先の見通しが「透明」になることなど、自由社会では永遠に起こりえない。
ためしに江戸時代の社会を考えてみよう。
人々には進学においても、移動においても、職業選択においても、婚姻においても、自由はほとんどなかった。 選択肢のない、なんとも息苦しそうな社会だ。
だがそれは現代と比べるからそう思うのであって、当時の人々がわが身の不自由さを嘆いたりすることは、恐らくなかっただろう(心中物などをみると、場合によって少しはあったと思われるが)。
当時の人々には、体制に順応しさえすれば、それぞれに帰属すべき共同体があり、就くべき仕事があった。結婚相手だって周りが勝手に決めてくれた。
今から見れば制約だらけかもしれないが、みんなそうなのだから不満を感じることもない。
明日は今日が繰り返されるだけだから、人生の選択に悩み、ストレスを募らせることもない。
そう考えると現在、社会の自由は大切に思うものの、自由であることの「収支」は自分の人生にとって実はマイナスなのではないか、と考える人が出てきても不思議はない。
生活に少しくらいの制約はあったとしても、極端な格差が解消され、安定した社会になるなら、そのほうが良いのではないか、と。
近年の選挙行動をみると、若者層はどうも保守化(あるいは右傾化?)しているのではないかという懸念の声が、リベラル派からしばしば聞こえてくる。
だがこれはイデオロギーの問題というより、自由に疲れて安定を欲しているだけと解するほうが、より自然であるように思える。
世界に目を向ければ、現在、民主主義の国・地域は全体の半数を割っており、民主国家に暮らす人々は徐々に減りつつある。
なかにはハンガリーのように、冷戦後一旦民主化したものがふたたび非民主化路線に戻った例もある。
みんな自由が欲しいのだから、黙っていてもそのうち世界は民主化するという“楽観的な”予測はものの見事に外れている。
これまで世界を主導してきた西欧や米国では、自由こそが絶対的な価値だった。
革命で民衆が血を流して手にした(と信じられている)並ぶもののない権利だ。
だからこそ、自分の意見をはっきり表明し、人と違うことをいとわず、自分のことは自分で決断するという、自由を“能く使う”ための教育が幼いころから施されているのだ。
こうした人々にとっては、一度は民主化したのに再び独裁国家に戻るなど、到底理解の及ばぬことだろう。
では翻って日本ではどうか。
少なくとも一般的な感覚としては、自由はあくまで相対的な価値に過ぎないのではないか。
自由が憲法で保障されているとはいえ、その憲法は「われわれ」が命がけで起草したものとは言い難いし、その実感もない。
それゆえか、表現の自由や言論の自由が脅かされたかに見える事案があったとしても、それを問題視して行動するのはいつも特定の人々にとどまり、“ふつうの人々”にそのうねりが拡大することはない。
そしてその特定の人々とは、権利としての自由を欧米から勤勉に学んだ人々や、自由の果実を享受している側の人々である。
日本人の多くは今なお―これは良い悪いの問題ではなく―何よりも安定と安全を好み、みんなそれぞれ少しずつ我慢して、その代わり仲良くやりたいという心性を、いまも保持しているようにみえる。
現下のウクライナ戦争は、民主国家と専制国家との戦いだと(これも欧米によって)いわれている。
それを自由主義と非・自由主義との戦いと言い換えることもできるだろう。
日本は自由主義の側に立ち、西欧諸国と歩調を合わせている。
これは政治的にも安全保障面からも(つまり損得においては)正しい選択であろう。
だが、G7のなかでただひとつの非・西洋の国として、自由に対する信仰にも似た思い、そして自由に伴う責任を引き受ける覚悟を他のメンバー国と本当に共有しているのかと問われると、果たしてどうだろうか。
自由を尺度としたとき、日本は今後、世界の中でどういうポジションに位置していくのか。
ウクライナの悲劇はそんなことも考えさせる。