(公財)公益法人協会 副理事長 鈴木 勝治
1.去る6月13日は、「小さな親切」運動の発足記念日であり、来年は発足60周年に当たるとのことである。 国民の大半がいまや「小さな親切」運動を知らない年代であるようなので、よくご存じの方々には恐縮であるが、その概要を簡単に以下に記すこととする。 ことの発端は1963年(昭和38年)3月の東京大学の卒業式において、当時の茅誠司総長が、アメリカの郊外で道を聞いたときにおける市民の親切な対応を例にとって、日本でも親切という徳を復活させようと、卒業生に演説をしたことにある(私の記憶ベースなので細部は異なるかもしれないことをお断りします)。これが大反響をよんで、なんとその年の6月13日に「小さな親切」運動本部が立ち上げられ、活動を開始し、現在に至っているということである。 2.当時、私はまだ大学の2年生であったが、新聞等でこの話を聞いて正直びっくりしたことを昨日のように覚えている。 理由はいくつかあるが、まず(1)「親切」という徳は、私が田舎(穏やかな山村)育ちであるためかもしれないが、家庭でも学校でも日常生活においても人に言われなくても当たり前に行われているものと思っていたこと、(2)それにもかかわらず、当時最高峰とされていた大学の総長が、卒業生に対し子供に諭すように親切の大切さを発信されたこと、(3)この発言により、当時の日本国民が喜んでこの運動に賛同し、主務官庁も3年余りでその社団法人の設立を許可したこと等である。 3.現在は公益社団法人である「小さな親切」運動本部が発行する情報誌『小さな親切』春号(№526)の60周年記念インタビューにおいて、多摩大学の寺島学長もこのような現象に対し当時は驚かれたことを発言しているが、今では茅総長の意図なり直感がよくわかると仰っておられる。 そのまま引用すれば、「当時は安保闘争が終わり、経済の時代へ突入した時期。その時、茅総長なりの直感で、今後経済主義だけでは日本の未来は明るくない、と気づかれたのでしょう。周りにいる人たちへの心配り、それが等身大の人間には大切で、人間社会を生きていくための基本であることを「小さな親切」という極めて簡素な言葉で伝えたのです。」と言われている。 4.私自身は当時は、このような事情まで考えが及んでいなかったことから、大変僭越ながら単純な発言であるよう思っていた。 というのも、親切心というものは個々の人の内心から発する実践的な倫理であり、それは集団で画一的に実行することには馴染まないという点がどこか心の底にあったからである。 しかし、昨今のロシアによるウクライナ侵略戦争を映像等で毎日のように見ていると、非道な状況におかれた人に対する「共感力」というものが沸々と湧いてくる。寺島学長は、「小さな親切」運動はこのような「共感力」を育む取り組みであるとインタビューの中で敷衍しておられる。 このように拡大して親切というものを捉え直せば、何のこだわりもなく「小さな親切」運動の考えに賛同できるようになると思われるし、それは更に拡大すれば、孔子の恕という考えにつながり、キリストの愛に関係するということができるのかもしれない。 以上 本稿については、事実の確認等について、公益社団法人「小さな親切」運動本部のご協力を得た。親切な対応に心からの感謝を申し上げるとともに、この運動が永続し、さらなる発展をされることを、お祈り申し上げます。 *参考:公益社団法人「小さな親切」運動本部の公式ホームページ https://www.kindness.jp/