公益財団法人 公益法人協会 会長 太田 達男
前回のNHK朝の連続ドラマ小説『虎に翼』は、我が国初の女性裁判官・三淵嘉子の苦闘と栄光の歴史を実話に基づいたオリジナルストーリーで、私も毎朝欠かさず視聴したがご覧になった方も多いと思う。
私はとりわけ彼女の再婚の夫・三淵乾太郎の父親・三淵忠彦に影響を受けた一人であったから格別このドラマの展開には興味があった。
年代も違い、会ったこともない1950年没の忠彦に、なぜ1932年生まれの私が影響を受けたのか、ここから今回のコラムの裏話が始まる。
忠彦は、もともと裁判官であったが辞職し、1924年設立したばかりの三井信託株式会社に法律部長兼顧問として招聘されている。
同社30年史によると「法律部長には大審院判事、東京控訴院部長判事を歴任した三淵忠彦氏を顧問として招聘した」と短く記録されている。
三井信託側としては、その設立2年前に施行された信託法、同業法に違背することなく今でいうしっかりしたコンプライアンス体制を作ることが最大の課題であったため、法律専門家が必要であったが、他方司法のエリートコースを歩んでいた忠彦がなぜ民間に転職を決意したのか、色々推量することができるが、ここでは司法大臣も務めた原嘉道氏の仲介があったことだけを紹介しておく。
忠彦は在職中、信託法では『信託法通釈』(1926年)、『信託法大意』(1929年)を表し、これを置き土産に1940年に三井信託を退社、その後は多くの人が知るように1947年に初代最高裁判所長官に任じられた。
なぜ一介の元裁判官が三権の長に任じられたのかも興味深いことではあるがここでは省略する。
私が三井信託に入社したのは1956年であるが、1963年から年金信託を皮切りに新種信託業務を開発する部門に配属される期間が長かった。
新種信託業務の商品化には信託2法のみならず民商法、税法などを調べ、法令等に違反しない標準約款を作り上げることが必須で、そのため資料室に収集されている信託法著作を調べることが第一歩であった。
忠彦の『信託法通釈』は偉大なる先輩の残した大作で、三井信託社員にとってはバイブル的存在であったということもあり、先ず紐解き、その後当時としてはほとんど戦前に執筆された他の先生方の著作を併読するというのが常であった。戦後の著作では唯一四宮和夫の『信託法』(1958年)しかなく極めて新鮮であった。
さて、公益信託は1922年信託法制定来一度も実用化された形跡がなく、他方既存の公益法人制度の杜撰な運営が国会でも問題となっていた1971年頃の背景があり、その解決策の一助として、私は公益信託の実用化に取り組むこととなった。
そこでいつもの通り先ず忠彦の『信託法通釈』を読んだが、驚いたことには「信託会社は信託業法に依って、信託の引受を為すについて、制限を受け、公益信託の引受の如きはこれを営むことが出来ぬのである(信託業法参照)」とあった。
しかし他の信託法解説本10冊前後は、私の記憶では大体3分の2は信託会社受託可能説、とくに前掲四宮本は可能説であったため、三井信託の信託法務に大きな影響力のあった忠彦の否定説を離れ、肯定説に従う決断を上司の部長(後に社長)も認めてくれ、晴れて私は公益信託の実用化に向けたプロジェクトを関係官庁(当時総理府他)、多数の団体、人々の協力を得て推進することができたのである。
その100年前に制定された公益信託法は抜本的に改められ、2026年春には施行が予定されている。
もともと英米法系の信託法は日本社会においてなじみが薄く、まして公益信託が社会においてどのような役割を果たすことができるかについては十分な理解が進んでいなかった。
公益法人協会では新公益信託法研究会を設置し、その正しい理解と活用に向けた研究会を設けている。ご関心の方は是非公法協事務局にお問い合わせいただきたい。