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口説の徒

(公財)公益法人協会 理事 谷井 浩

幼い頃(昭和30年代)、「“口説の徒”になるな」と、父母から云われて育った。

1年前の朝のこと。最寄り駅まで遅刻ぎりぎり自転車通勤。途中の交差点、横断歩道手前の赤信号待ち。私の視界の隅に入ったのが、車道と歩道の境で横倒しになったママチャリ。脇に立つ女性。明らかに子供を保育園?に送った後の自損事故。
大丈夫そう、に見えた。
青信号になって横断歩道を渡り掛けた私に、右手で自転車を押し、左手で赤い血が滲んだタオルで顔を押さえて歩き始めた女性の姿が見えた。私はサポートに戻らなかった。
ゆっくり自転車を押す女性と、駅に向かって自転車で走り去る自分の画像が目に浮かぶ。

2006年成立の公益法人関連三法について、ある担当官が、「ガラス細工」のように繊細に作られていると仰ったことを覚えている。
遠い学生時代に読んだヘッセの「ガラス玉遊戯」を思い出す。非常に高邁な精神と知性の極みを発揮する芸術遊戯、高度な素質と訓練を積んだ人しか出来ない、との朧げな(ヘッセさん、ごめんなさい。)記憶。「ガラス細工」のように繊細かつ多方面への配慮に満ちた公益法人制度の運用は、「ガラス玉遊戯」のように高度で難しい。
その「ガラス細工」の扱い方を、当局も当協会も関係者全員が分かり易く説明しようと非常な努力を払っているのは肌で感じる。しかし、理解と運用習熟に時間が掛かる制度。

自分は、公益法人と非営利型一般法人に四十年以上勤め、第二の職場も公益法人で、公益法人制度改革対応など公益に関わる仕事をさせて頂いて居る。そして信じる。人間の利他の行動が世界を動かしていくと。その行動の結実の為に、公益法人制度がある。その「ガラス細工」のような制度の普及と課題解決に、自分なりに一生懸命に取り組んで居る(ガラス玉遊戯とは言わない!)内に、いつの間にか、血の滲んだタオルで出血を止めている傷付いた人を傍観し置き去りにする、公益の原点である利他の「行動」から遠い人間になっていた。

もう一度、同じことが起きたら、自分は、あの人のサポートに戻るだろうか。口説の徒とならないだろうか。