(公財)公益法人協会理事・元高知県知事 橋本 大二郎
NHKの記者として大阪に勤務していた時、伊丹空港の近くに住んでいたことから、空港の記者クラブにも籍を置いていたが、そのことが、後に起きる大きな航空機事故の伏線と私とを、結び付けることになった。
それは、大阪に異動して一年たった1978年6月のことで、日本航空のジャンボ機が伊丹空港に着陸する際、機体の後部を滑走路に接触させる尻餅事故を起こした。
その日、空港担当の先輩記者の応援で、空港に駆けつけて取材をしたのだが、機体に破損は見当たらず、乗員乗客にけがもなかったため、事故の経緯を伝える記者リポートを撮った後は、この事故のことはすっかり忘れていた。
ところが、この飛行機は、その7年後の1985年8月12日に、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落して乗員乗客520人が亡くなるという、わが国の航空機事故史上最悪の事故を起こした。
ただ、その機体が、7年前に尻餅事故を起こした機体だったと知ったのは、事故が起きてしばらくたってからのことだった。
というのも、尻餅事故の際の大阪空港での私のリポートを、資料映像で見た後輩の記者から、「橋本さん、あの時は若かったですね」と声をかけられて、初めてそのことを知ったのだ。
飛行機をはじめメカにあまり興味のない私は、尻餅事故の後、その機体がどうなったかに関心を持たなかったが、この機体はその後、アメリカのボーイング社の工場に運ばれて、客室と後部の貨物室とを分ける圧力隔壁の修理を受けていた。
その際の不備で、1985年8月12日、東京を飛び立って大阪に向かう途中に隔壁がこわれ、操縦不能に陥ったのではというのが、事故調査委員会の見立てになっていた。
だから、もし私が飛行機に興味があって、この機体のその後を取材していれば、飛ぶ航路によって便名は変わっても、機体番号は変わることがないので、
御巣鷹の事故発生後に事故機の機体番号がJA8119と発表された時すぐに、尻餅事故以降にこの機体がたどった経過を原稿に書き起こせたのではと、今も悔しく思うのだ。
この事故から数年後、そんな悔しさを思い出させる教訓話を、先輩から聞いたことがある。
それは、“棚からぼた餅”の本当の意味は何かという話だった。
「 “棚からぼた餅”というけれど、それは、その棚のある部屋にいるからぼた餅が落ちたことに気が付くんだ。
もし別の部屋にいたら、棚からぼた餅が落ちても気が付かないし、後でその部屋に入ってぼた餅を見つけた時には、ぼた餅は腐っているかもしれない。
だから、棚の上にぼた餅があると気が付いたら、せめて一日に一度は、ぼた餅の乗った棚のある部屋をのぞきに行け。
そうすれば棚からぼた餅が落ちた時に、いち早くぼた餅を拾える」
先輩はこんな話をしてくれたのだ。
520人もの方が亡くなった事故を、ぼた餅に例えるのは不謹慎だと叱られるかもしれないが、“棚からぼた餅”は、降ってわいた幸運を言うのではなく、ぼた餅を拾うためには、それなりの勘と努力が必要だという教訓は、事故後40年を経た今も私の心に残っている。