(公財)公益法人協会 理事 谷井 浩
我が身を顧みて、今から思うと大真面目に絶対的真理を追求していた高校生の頃。したがって、検証不可能な前提に基づく「倫理・哲学」は大嫌い、論理整合性が唯一だった頃。たまたま読んでいた本(推理小説のブラウン神父だったか?)に、「空っぽの教会では神様はお喜びにならないでしょう。」という一文があった。その時は、空っぽであろうが満員であろうが、絶対的真理とは関係無い(当時はそう思ってました。)ので読み飛ばして居たが、何か心に引っ掛かるものがあったのか、ずっと覚えている。あれから、50年が過ぎ、今回の公益信託制度改正について、定期提出書類や、財務3基準の原則的適用など、これまでの公益法人制度等と、法制・税制面で論理整合的な制度であることは認識できる処。しかし、制度立案者に於いて可能な限りの簡素化努力を払って頂いては居るものの、この制度を理解し、遵守しながら、公益信託を運用していく主体(委託者・受託者等)が、どのくらい現れるか。頭の中をよぎったのは、論理整合的であっても「空っぽの(会衆の少ない)教会では神もお喜びにならない。」という一文。
一方、今回の改正に於いて事業型公益信託が制度化されたことは僭越ながら画期的と思う。何故なら、少子高齢化とインフレが進み、平均的日本人の収入・貯蓄水準では何ともならない世界が現出した場合、「カネ」よりも「モノ」と「ヒト」が重要となる。それは、冬山で、幾らお金があっても、一杯の熱いコーヒーと手助けしてくれる人手が無ければ、また、豪華な介護施設で介護士さんが居なければどうにもならないのと同じ。すなわち、助成型に加え事業型公益信託が必要とされる未来が必ず来ると考えるから。
さらに、制度制定者は、公益信託に関して、法的税制的整合性に基づき、委託者や受託者に「何をしてはいけない。」、「これをしなければ課税される。」などの規制は出来るが、「公益信託を作れ。」とは指示出来ない。「空っぽの(会衆の少ない)教会にしないこと」は、民間がやる行為。
最後に根本的な問題があると有識者はじめ皆はいう。すなわち、寄附に対する日本人の消極性の問題である。安易に宗教の問題にしてはいけない。キリスト教の寄附、イスラム教のザカードと同様、仏教にも喜捨という規範があるのではないか。「空っぽの教会」にしない為、今は原因究明よりも実行である。実行のよすがとして、私はクリスチャンでは無く、不遜であることは十分承知の上で、学生時代に読んだ新約聖書の「コリント人への手紙」を不正確は承知でところどころ思い出す。
たとえ、預言する能力を持ち、あらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの大いなる信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、愛が無ければ、何の益もない。信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(何とパウロは能力や知識や信仰よりも愛を尊重していると生意気な学生時代の私は思う)。
それゆえ、我々民間サイドは、
1.この改正公益信託制度に於いて出来ることをやること。例えば、経理的基礎のある銀行等と技術的能力のある公益法人やNPOとの共同受託など
2.制度を少しでもより一層使い易くするために主張していくこと。例えば、公益信託は全て指定純資産と整理出来るのではないか?中期的収支均衡の概念から外れるのではないか?など
3.社会を他者への愛(思いやりと行動)が評価されるように、まず自分を変えていくこと
公益信託制度に関しても、また、社会に関しても、「空っぽの(会衆の少ない)教会」にしたくは無い。