(公財)公益法人協会 副理事長 鈴木 勝治
1.旧臘26日、「新しい時代の公益法人制度の在り方に関する有識者会議」(以下、単に「有識者会議」という)は、民間による社会的解決に向けた公益的活動を一層活性化し、「新しい資本主義」の実現に資する観点から、公益認定の基準をはじめ、現行の公益法人制度の在り方を見直し、制度改正および運用改善の方向性についての検討結果の中間報告をまとめた。 *本中間報告の詳細は、https://www.koeki-info.go.jp/regulation/koueki_meeting.html 参照。 本中間報告では、有識者会議としての基本的な考え方を整理したものであり、これに沿ってさらに具体的な検討を進めようとしていることから、その個別の内容の是非や今後の検討の在り方等については、ここでは言及しない。 2.ただ、報告書の1.「改革の意義及び基本的方向性」の中では、「成熟した市民社会においては、(中略)営利を目的としない民間非営利部門が「公(こう)」として多様な社会的価値の創造に向けて果たす役割が、ますます重要になる」と書かれている。 また、その箇所以外にも、こうした成熟した社会においては、 1)「公(こう)」への国民の参加や支援を広く呼び込んでいくための枠組みの整備 2)「公(こう)」の担い手である民間非営利組織には 3)我が国における「公(こう)」の主たる担い手たる「公益法人」は といった表現がみられるところである。 しかしながら我々公益法人は、公益認定法第1条により民間の団体が自発的に行う公益を目的とする事業を実施する一般法人であり、「公(こう)」を担っている、あるいは担うべき法人では必ずしもないのではないか、という疑問が生じるところである。 したがって、成熟した社会において「公(こう)」という言葉で表現されるものは何であるか、その言葉を使うことにより、従前の公益法人と何か違った役割が期待されているのかを考えておく必要があるのではないか、と個人的には感じている。 3.以上を考えるにあたっては、 1)成熟した(市民)社会とは何か 2)「公」という言葉について「こう」と振り仮名をあえてしている理由は何か 3) 以上1)2)を解析した結果、公益法人に期待される新しい役割は何か という順序で検討してみることとする。 (1)成熟した社会とは ものの本によれば、「成熟した社会」とは、イギリスのノーベル物理学賞を受賞した物理学者で、かたわら未来学者としても活躍した英国のガボールの1972年出版の同名の著作から転用された言葉であるようである(出典:『日本大百科全書』小学館、1987年)。 ここでは「成熟社会」とは、これまでの物質万能主義を排し、ひたすら量的拡大のみを追い求める経済成長やそれに支えられた大量消費社会の代わりに、高水準の物質文明と共存しつつも、精神的な豊かさや生活の質の向上を優先させるような、平和で自由な社会を意味しているとされている。 このような成熟社会の条件・定義を現在の日本が十分に満足しているかどうか疑問があり、後段の「平和で自由な社会」の部分についてはそのとおりであっても、その他の部分については如何かと思われる。 ただ、これらについてもそのような萌芽が垣間見えるとともに、一時期この議論が日本でも盛んにおこなわれた※1ように、このような社会を志向する向きも多いことは事実であろう。 ※1 たとえば、林雄二郎氏の著書に『私の成熟社会論』(産業能率大学出版部、1980年)、『成熟社会 日本の選択』(中央経済社、1982年)がある。 (2)「公(こう)」とは何か 「公(こう)」については言うまでもなく、「おおやけ」という読み方があるが、両者に共通する語義としては「特定個人に関することではなく、世間一般に関係すること」がある。 他方、「おおやけ」に特有の意味としては、大きな家や建物から発生して天子・朝廷の意味となり、それから由来した「官庁またはその組織体」「その属する機関の構成員としてかかわること」がある。 一方、「こう」のほうは多義的であり、「偏らない」「広く通じる」「貴人・偉人の名につける敬称」等がある(以上は各種の国語辞典による)。 本中間報告であえて「こう」と振り仮名をつけている意味は、「おおやけ」に特有の意味である「官庁またはその組織体」「その属する機関の構成員」に関することではない、ないしはそれのみを意味しないと強調することにありと推測される。 結果それは、共通の語義である「特定個人に関することではなく、世間一般に関係すること」を指しているのではないかと思われる。 そして、さらにそのような場についてまで拡大解釈されると、「こう」ということは、英語のパブリック(Public)となると考える。 (3)公益法人に期待されるもの 以上(1)(2)の推理・推測が正しいとすれば、この中間報告において新たに公益法人等に期待されることは、 1)多様な社会的価値を創造していくとともに、 2)「公(こう)」への国民の参加や支援を広く呼び込んでいくための枠組みの整備と、 3)それらを実行していく ということになるのであると思われる。 ただ、すでに我々公益法人は、上記1)については、それが十分であったかどうかは別として、過去ならびに現在もそれなりに対応をしていると自負しているので、今回の中間報告の期待は、「おおやけ」のみが行うのではなく、平たくいえば「公(こう)」として、官民を問わずこれらのことを一緒にやっていこうという意味に読み取れるのではないかと思われる。 この理解が正しく、かつこれを国全体として実行する方向に向かうということは、今までの日本のあり方からすると画期的なことであり、ある意味歴史的な大転換であると評価できよう。 4.ただ、日本のような権威主義的な「おおやけ」が残存している社会では、このような考えが直ちに適用できるかは疑問が残るし、「公(こう)」の社会への変更過程において各種の問題も多々発生することが予想される。 福沢諭吉は、約150年前(明治8年)に『文明論之概略』を著わし、日本が半開の国である理由として「権力の偏重」があることを指摘しているが※2、直近でも猪瀬直樹氏が『公〈おおやけ〉』という著書※3においてそれを引用して日本社会を糾弾している。 このようにこの問題は古くて新しいものであるが、我々はたとえ厚い障壁があってもそれにめげず、せっかく解決の機運が萌している現時点において、このような社会の実現を目指して、孜々として官民挙げて努力し、それを乗り越えていくことが必要とされるのではないかと思われる。 ※2 福沢諭吉著『文明論之概略』第9章の冒頭では、「我国の文明を西洋の文明に比較して、その趣の異なる所は特にこの権力の偏重に就いてみるべし。」とあり、以下その事例を記述している。 ※3 猪瀬直樹著『公〈おおやけ〉 日本国・意思決定のマネジメントを問う』(ニューズピックス、2020年)